横浜トリエンナーレ2005
http://www.yokohama2005.jp/jp/





総合ディレクター
『川俣正』
http://www5a.biglobe.ne.jp/~onthetab/

11月12日



総合ディレクターの川俣正は、同級生でして、
彼のの世界的活躍をぜひ見学したいと高校時代の同窓会も兼ねて、
20名くらいの仲間が結集したのでした。



  
地下鉄の駅を降りると、さっそく丸柱に貼り付けられた宣伝コピーが目に飛び込んでくる。


 
ここからすでにアートが始まっている、彼らしいアイディアだ。


 
積み木のように、港のコンテナがうまく利用されている。(ルック・デルー)


 

 

 
メディアに頻繁に登場している、入り口から続く旗旗の作品。(ビュラン・サーカス・エトカン)
海のすぐ横を歩いていくのです。


 
対岸は、床なのか壁なのかわからない不可思議な面がうねる、国際コンペの横浜大桟橋。
(次回レポート)




 
川俣に会うやいなやさっそく連れて行かれたのが、屋台。
倉庫の中の作品群の中を連れられながら、
雰囲気がなんとも言えず「うん、いいな!」と直感した次第。



アジア風のおやじが、でんと腰掛けていたりして・・・


 
突然、いい気分の川俣の父と、いとこの「エアG」の北川久仁子女史がいたりして。
会場の作品を見学する前に、ビールを飲んで一息つきながら、
両氏と雑談して親交を深めて会場に向かったわけです。



基本的に会場内は撮影禁止。
以下は、支障のないようにこっそりと撮影したものです。



 
 
 
 
川俣なのか川俣っぽい場所の設定か、建築的でロケーションにはまっていました。(奈良美智+graf)


 
出入り口にある内蔵のカフェ、みなと未来の黄昏の夜景が美しい。(アトリエ・ヴァン・リースホワイト)


 
帰りも旗旗の中を待ち合わせの出口に向かう。


 
夜の月が美しかった。


*

そして、中華街で川俣のお父さんと北川くにちゃんの特別参加を得て、
同窓会が行われたのでした。

その前に中華街をちょっと散策。


 
中華街は、相変わらず毎日がお祭りの雰囲気です。



市場通りに入って、さらに小さな路地の台南小路に入ると、
有名人が食べてる写真が壁にいっぱい貼ってある、おいしそうな店がありました。

こんど行ってみたいところです。

*

1981〜1982年にかけて、
当時の私は、横浜の店舗をデザインプロデュースする会社に勤めておりました。
そのときの市長は、社会党の飛鳥田一男。
よそから来ている一市民が感じていたくらいですから、
街には活気とある「手応え」がありました。
巷では、港湾労働者が食事をする店に、彼もよく朝食を食べに来るということで、
有名でした。
東京からみると、元町や山下公園などが横浜の雰囲気を物語っていて、
まさに港の表のイメージを代表していたような気がします。
つまり東京から来る人間は、(本当はいろんなところから来ていたんだけど)
きれいなうわべだけの横浜をさらっと見学していって終わりだけど、
横浜市民の我々は、違うんだ!
という、自分たちの街に対する、
もの凄い誇りを彼らとつきあっていると感じたものでした。
だから、
同僚の横浜人によく連れて行ってもらったのは、
横浜駅西口界隈でした。
一味もふた味も違ってとてもおもしろかった。
横浜球場も市民の球場になっていて、
関内の仕事帰りのサラリーマンがよくナイター観戦を楽しんでいました。
有名建築家の公共建築も何気なくそこここに存在していて、
歴史的建物の中にごく自然に馴染んでおりました。
会社は、桜木町だったんですが、
たまに「ものもらい」の人たちが、まだ徘徊していたような時代でした。
それが、ベイブリッジが架かり、
みなと未来の再開発で一変し、
中華街ももの凄い人が押し寄せています。

当時、桑沢デザイン研究所の先生に連れて行かれて、
いまよりまだまだ裏町風の中華街市場通りの店でご馳走になった、
中華料理はうまかったですね。
まあ、貧乏していて腹も減らしていたからだと思うけど・・・

やはり、20数年の歳月は、
ひとも街も当然、変えてしまうものですね。




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